インサイト

国際的イニシアティブの理想とScope3の現実のあいだで – SBTi・CDP・GHGプロトコルをめぐる“義務化の揺り戻し”と日本企業の選択 –

序章:理念が世界を動かし、やがて縛りはじめた

「Scope1・2・3」という温室効果ガス排出の区分が初めて定義されたのは、2001年にGHGプロトコル(Greenhouse Gas Protocol)が公表した企業向け会計基準でした 。
自社の直接排出(Scope1)、購入電力などの間接排出(Scope2)、そしてサプライチェーン全体の排出(Scope3)を把握するという発想は、当時としては革新的でした。

2010年代、ESG投資や国際的な気候イニシアティブが拡大し、この概念は“世界共通の言語”となります。
特にScience Based Targets initiative(SBTi)やCDP(旧Carbon Disclosure Project)が中心となり、「科学的根拠に基づく削減目標」や「環境情報開示スコア」を国際的な評価指標として広めました。

しかし、理想を掲げるうちに「自主的な宣言」は次第に「半強制的な義務」へと変わっていきます。
SBTiの認定を取らなければサプライヤー契約が難しく、CDPのスコアが低ければ投資家から敬遠される。
こうして「やらざるを得ない」構造が企業の現場に定着していったのです。

2025年の今、世界はこの“理念の過剰”を見直しはじめています。
理想を掲げることは尊いことです。
しかし、理想が目的化し、企業の自立的な判断を奪うなら、それはもはやサステナビリティとは呼べません。

1. 世界で進む「Scope3義務化の反動」

アメリカでは2024年、SEC(証券取引委員会)が気候関連開示ルールの最終案を公表しましたが、Scope3の報告義務は削除されました 。(参照:ESG DIVE「SEC drops Scope 3 from final climate rule.」)
理由は「コストが過大」「データの信頼性が低い」「二重カウントのリスクが大きい」という実務上の課題でした。
この判断をもって、米国は「理想を掲げつつも、現実的な範囲で進める」という方向へ舵を切りました。
欧州でもCSRD(企業サステナ報告指令)やCSDDD(企業デューデリジェンス指令)の見直しが始まり、
ウクライナ紛争、エネルギー価格高騰、インフレによる企業負担を踏まえ、「制度疲労」を防ぐ議論が進んでいます 。

Deloitteの2024年レポートでは、「Scope3を報告している企業は全体の15%にとどまる」と指摘され 、
WRI(世界資源研究所)は「データ入手が困難」と回答した企業が83%に上ると報告しました 。(参照:World Resources Institute「Trends Show Companies Are Ready for Scope 3 Reporting with US Climate Disclosure Rule」)
理想は共有されているものの、現場の実装が追いつかない現実が浮き彫りになっています。

2. CDP・SBTiをめぐる“気候カルテル疑義”

2025年7月、米国でCDPとSBTiという2大イニシアティブが、「気候カルテル(Climate Cartel)」疑義のもとで州司法長官の調査対象となりました。

フロリダ州の司法長官ジェームズ・ウスメイヤー氏は、「これらの団体が企業に対し、有償で気候関連データや目標設定サービスを事実上強制している可能性がある」として、反トラスト法および消費者保護法に基づく召喚状を発行しました 。(参照:Office of the Attorney General State of Florida「Attorney General James Uthmeier Launches Investigation into Climate Cartel for Potential Consumer Protection and Antitrust Violations」)
CDPが企業から情報を集め、SBTiがそれを認証し、再びCDPへ報告する――
この閉じた循環構造が「市場支配的」と見なされたのです 。

さらに、共和党系の23州司法長官がSBTi宛てに連名書簡を送り、「ネットゼロ基準が産業や農業に不当な負担を与えている」「反競争的であり、企業の独立判断を損なっている」と警告しました 。

この動きは、欧米で長く続いた「気候イニシアティブ覇権」への揺り戻しです。
もともと自主的な枠組みであったはずのイニシアティブが、いつしか企業活動の上位に立ち、
「認定されなければ信用されない」という歪な構造をつくってしまった。
その見直しが、いま制度の中枢から始まっています。
日本では報道が限定的ですが、この流れは「恐れるべき後退」ではなく「健全化への転換」と見るべきです。
理念を独占せず、企業が自分の頭で考える時代への移行が始まっています。

3. 欧米金融機関に広がる「イニシアティブ離脱」

同時に、欧米の大手金融機関でも主要イニシアティブからの離脱・縮小が相次いでいます。

企業/機関イニシアティブ名脱退・縮小時期背景・理由
BlackRockNet Zero Asset Managers(NZAM)2025年1月9日「自社方針と混同され法的リスクを招くため」脱退。共和党州の反ESG調査も影響 。※1
Goldman Sachs Asset ManagementClimate Action 100+(CA100+)2024年8月9日第2フェーズ要件が「独立判断を損なう」として脱退 。※2
J.P. Morgan Asset ManagementClimate Action 100+2024年2月集合的拘束より個別方針を優先 。※3
State Street Global AdvisorsClimate Action 100+2024年2月ESG投資の政治的リスクを懸念して撤退 。※3
InvescoClimate Action 100+2024年3月脱退企業が70社超に達し、制度疲労の象徴に。
(※1)参照:BlackRock「Excerpt from letter to clients on BlackRock’s decision to leave NZAM」
(※2)参照:Reuters「Goldman Sachs’ fund division to leave climate investor group」
(※3)参照:Climate Action 100+「Climate Action 100+ reaction to recent departures」

これらの決断は「理念の放棄」ではなく、むしろ「理念の再生」に向けた試みです。
米国の企業や金融機関は、理念を盲信するのではなく、理念の“運用の仕方”を再設計するための時間を取っているのです。

4. 日本企業が抱える“完璧主義の罠”

日本の企業文化には、「決められたルールを正確に守る」美徳があります。
しかし、Scope3やSBTi認定のように流動的でグレーな領域では、それが時に“過剰適応”として作用します。

「どこまでやれば十分か」を自分で決められず、「誰かが決めた基準」に従う方が安心する。
その結果、膨大な時間とコストをかけてデータを整え、実際の削減行動が後回しになる――そんな状況が多く見られます。
Scope3の全量算定にこだわるのは、「森を守るために、すべての木を一本ずつ数えようとして時間切れになる」ようなものです。
本来の目的である“削減と行動”よりも、“報告と点数”が優先されてしまっているのです。

5. 世界の中で日本企業が突出する“頑張りすぎ”構造

SBTiの最新モニタリングレポート(2023年版)によると、SBTiで認定された企業数は世界で約4,200社ですが、そのうち日本企業は約560社(全体の13%超)を占め、国別で世界最多です 。(参照:Science Based Targets Initiative「SBTi Monitoring Report 2023」)
同様にCDPスコア提出企業でも、日本は上位国です。上場企業だけでなく、非上場の中堅企業までが、サプライチェーンを通じて「認定・スコア提出」を迫られています。

もちろん、これは誠実さと責任感の表れでもあります。
しかし、その一方で、「誰のために」「何を目指して」取り組んでいるのかが曖昧なまま、“やらされ感(義務に従う文化)”“みんながやっているから安心(バンドワゴン効果)”の連鎖が広がっているようにも見えます。

まるで1990年代後半のISO9000/14000取得ブームの再来のようです。
当時、日本企業だけが一斉に資格取得に奔走し、目的よりも“認証そのもの”が目的化していました。
SBTiやCDPも今、同じ構造に陥りつつあります。

この“頑張りすぎ”の努力は、国際的には必ずしも評価されていません。
投資家が全社を精査しているわけではなく、多くは“認定済み”というラベルをスクリーニング基準として使っているに過ぎません。
つまり、企業努力の量が投資判断、企業評価に直結しているわけではないのです。

6. 「ほどほど」を決める勇気

Scope3対応で重要なのは、「すべてを測ること」ではなく、「どこに責任を持ち、どう減らすか」を明確にすることです。
重要度の高い領域に集中し、推定値も柔軟に活用する。
その上で、「測るより減らす」に経営資源を振り向ける。

完璧でなくても、誠実に説明できる範囲で対応することが、最も信頼される道です。
「ほどほどの知恵」こそ、長く持続するサステナビリティ経営の基本だと思います。

7. 理念を制度で縛らず、市場で支える

2025年下期は、世界の脱炭素制度と市場が再定義される節目です。
この時期こそ、SBTiの認定やCDPスコアなど外部基準に過剰に縛られず、立ち止まって、自社の方針を改めて考える時間にあてましょう。
企業が一度立ち止まり、原点に立ち返ることは“後退”ではなく、“再構築”です。
私たちLinkholaは気候スタートアップとして、自らGHGを大量排出する事業構造ではないため、Scope1〜3を自社で算定・開示はしていません。
しかし、民間主導の自主的炭素市場(VCM:Voluntary Carbon Market、ボランタリーカーボンクレジット市場)を通じて、企業や地域の脱炭素活動を環境価値化・促進する仕組みを支援しています。

カーボンクレジットは“免罪符”ではなく、“行動の証拠”です。
理念を制度で縛るのではなく、市場と技術で支える。
それが次のフェーズだと信じています。

結び:理想を恐れず、義務に縛られず、行動を止めない

日本企業の誠実さは世界に誇る財産です。
だからこそ、今はその誠実さを“考える力”に変える時期です。

理想を掲げ、恐れず、義務に縛られず、行動を止めない。
そして、外部評価に振り回されずに、自社の信念と戦略で未来を描く。
それが、脱炭素と経済成長を両立させる新しい日本企業の姿だと思います。

関連記事

TOP